思考訓練としての日本古代史考察
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先代旧事本紀にみる6世紀の天皇(その1)

以前、「物部守屋の不条理」、「先代旧事本紀こそ本来の天皇系図を保存しているのではないか」にて先代旧事本紀は本来の天皇系図を表しているのではないかと考えた。

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上記の先代旧事本紀の本来の系図から物部守屋と物部雄君は2世代後の人物だと考えて、以下の系図だと考えた。

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今回は物部尾興以前の物部氏の系図を考えてみる。

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九世孫から物部尾興の十三世孫までの大連を経験した人物のみをピックアップした。なお、九世や十世などがついているのは先代旧事本紀の各世代の筆頭に挙げられた人物である。各人物の下の数字は大連を務めた天皇の在位期間である。

系図を見ると十世の物部印葉(イニハ)は三世紀応神天皇の大連だが、その兄弟は5世紀允恭天皇や履中天皇などの大連である。十世で世代の飛躍があるのだ。また、十一世孫の物部眞椋(マクラ)については十一世孫の筆頭に挙げられながら大連ではない。物部氏系図は十世から十三世までにも系図の捏造が存在するのではないか。

先代旧事本紀と日本書紀での大連は以下の通りである。

履中天皇 先:物部伊莒弗 日:物部伊莒弗
反正天皇 先:物部伊莒弗 日:
允恭天皇 先:物部麦入日 日:
安康天皇 先:物部大前日 日:物部目・大伴室屋 
雄略天皇 先:物部布都留 日:物部目・大伴室屋
清寧天皇 先:物部目日日 日:大伴室屋
顕宗天皇 先:物部小前日 日:
仁賢天皇 先:物部木蓮子 日:物部麁鹿火・大伴金村
武烈天皇 先:物部麻佐良 日:物部麁鹿火・大伴金村
継体天皇 先:物部目日日 日:物部麁鹿火・大伴金村       
安閑天皇 先:物部麁鹿火 日:物部尾輿・大伴金村 
宣化天皇 先:物部押甲日 日:物部麁鹿火・大伴金村 
欽明天皇 先:物部尾輿日 日:物部尾輿・大伴金村 

履中天皇以前の大連は一世紀の垂仁天皇の物部十千根大連となる。また、武烈天皇は大伴金村が大連であるが、なぜか大伴室屋が登場する。

《武烈天皇三年(辛巳五〇一)十一月》十一月。詔大伴室屋大連。発言濃国男丁。作城像於水派邑。仍曰城上也。

そして、物部麁鹿火は宣化天皇元年に亡くなり、物部尾輿に大連が代わるが、なぜか、宣化天皇の前の天皇である安閑天皇の時代に物部尾輿が登場するのである。

《安閑天皇元年(甲寅五三四)閏十二月是月》是月。廬城部連枳〓唹女幡媛。偸取物部大連尾輿瓔珞。献春日皇后。事至発覚。枳〓喩以女幡媛。献采女丁。〈 是春日部釆女也。 〉并献安芸国過戸廬城部世倉。以贖女罪。物部大連尾輿恐事由己。不得自安。乃献十市部。伊勢国来狭狭。登伊。〈 来狭狭。登伊、二邑名也。 〉贄土師部。筑紫国胆狭山部也。』武蔵国造笠原直使主与同族小杵、相争国造。〈 使主。小杵。皆名也。 〉経年難決也。小杵性阻有逆。心高無順。密就求授於上毛野君小熊、而謀殺使主。使主覚之走出。詣京言状。朝庭。臨断、以使主為国造。而誅小杵。国造使主悚憙交懐。不能默已。謹為国家、奉置横渟。橘花・多氷。倉樔。四処屯倉。是年也、太歳甲寅。
《宣化天皇元年(丙辰五三六)七月》秋七月。物部麁鹿火大連薨。是年也、太歳丙辰。

反正天皇や允恭天皇、顕宗天皇については日本書紀で具体名のある大連が登場しないので空欄とした。

赤文字は各世代筆頭で大連となった人物である。欽明紀の物部呉足尼については省略した。物部木蓮子については日本書紀において安閑天皇の大連であった可能性がある。安閑天皇元年3月6日では物部木蓮子「大蓮」となっており、大連を連想させるからである。

《安閑天皇元年(甲寅五三四)三月癸未朔戊子。【六】》三月癸未朔戊子。有司為天皇納采億計天皇女春日山田皇女為皇后。〈 更名山田赤見皇女。 〉別立三妃。立許勢男人大臣女紗手媛。紗手媛弟香香有媛。物部木蓮子〈 木蓮子。此云伊施寐。 〉大蓮女宅媛。

以上のように先代旧事本紀の物部氏系図と日本書紀ともに歴史を延長して過去に遡らせたことによる矛盾が生じていると考えられ、先代旧事本紀と日本書紀は別の時期に捏造されたという印象をもっている。

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卓淳滅亡時の天皇

前回の「やはり日羅の暴露こそ下韓返還の原因ではないか」までで、日羅の来倭と卓淳滅亡が欽明13年から欽明14年にかけて起こったのではないかと考えた。

また、卓淳滅亡が欽明14年553年正月であり、任那滅亡のことではないかと考えている。

《欽明天皇二三年(五六二)正月》二十三年春正月。新羅打滅任那官家。〈 一本云。二十一年、任那滅焉。忽言任那。別言加羅国。安羅国。斯二岐国。多羅国。卒麻国。古嗟国。子他国。散半下国。乞〓[冫+食]国。稔礼国。合十国。 〉

「一本いわく、21年」となっているが、562年が21年だとしても九州年号の明要年号でも22年であり、何を根拠に21年としているかは現時点で不明である。

(二中歴による)九州年号総覧
明要 11年間 辛酉541年元年 541年~551年

欽明14年553年が23年だとすると元年は531年となり、九州年号の教倒元年なのだ。また、531年とは日本天皇、太子、皇子が共に死んだ年でもある。

《継体天皇二五年(辛亥五三一)冬十二月庚子【五】》冬十二月丙申朔庚子。葬于藍野陵。〈 或本云。天皇、二十八年歳次甲寅崩。而此云。二十五年歳次辛亥崩者。取百済本記為文。其文云。大歳辛亥三月。師進至于安羅営乞〓城。是月。高麗弑其王安。又聞。日本天皇及太子・皇子、倶崩薨。由此而言。辛亥之歳当二十五年矣。後勘校者、知之也。 〉

553年が教倒23年だが、九州年号では教倒年号は5年間であり、その後、僧聴⇒明要⇒貴楽と続くのである。

(二中歴による)九州年号総覧
教倒 5年間  辛亥531年元年 531年~535年
僧聴 5年間  丙辰536年元年 536年~540年
明要 11年間 辛酉541年元年 541年~551年
貴楽 2年間  壬申552年元年 552年~553年

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教倒23年とは貴楽2年であり、貴楽年号最後の年である。23年とは天皇の在位を表しているのだろうか。天皇は即位に伴い教倒年号に改元し、僧聴⇒明要⇒貴楽と改元したのだ。531年に天皇は旧勢力を滅ぼし新たに国家を建設した新皇なのか。つまり、四天王の持国天にあたるのではないか。

中国側の資料では6世紀については、502年梁書の「鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍」しかない。しかも倭から梁へ朝貢したわけではなく、梁建国に伴う昇進のようなものである。確実なのは477年の宋に対する「倭國、使を遣わし方物を獻ず」であり、その次は600年隋に対する阿毎字多利思比孤の遣使なのだ。正史には6世紀の倭の朝貢が記載されていないが、梁職貢図には倭国のものがあるので実際は遣使をしていたのだろうか。

倭が中国へ正式な使者を送っていないとすれば、原因の1つとして考えられるのは加羅の南済への朝貢ではないか。479年に加羅国王荷知が中国の「南斉」に朝貢して「輔国将軍本国王」に冊封されている。「日本は479年に朝鮮半島で建国したのではないか」において「輔国将軍本国王」とは「輔国将軍本国王」ではないかと考えたが、倭の属国であった加羅を南済が冊封してしまった為に倭は中国への遣使をやめたのだ。

また、当時の中国は南北朝時代であり国ができては滅びていた時代である。5世紀の後半ぐらいから中国の皇帝を天子として仰ぐのではなく、倭の天皇自らが天子であると考えはじめた時期とも考えられるのだ。その証拠に稲荷山古墳出土の鉄剣には「治天下」と明記されている。治天下できるのは天子だけであり、その後九州年号を建てたことも天子だからこそなのである。倭の天皇が自分は天子と考えていれば、中国へ朝貢などしないであろう。

稲荷山古墳出土の鉄剣裏
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

隋書では倭のことを「俀」と記載している。そもそも倭は「ワ」と読むのが一般的だが、当時は「ヰ」と発音し「イ」に近い音だったという。「俀」だと「タイ」と読むのだから国名が違うが、隋書の俀国伝はそれ以前の倭国伝の内容を踏襲しているのだ。思うに日本はもともと倭であったが、推古天皇の時代には大倭と自称していたのではないか。大倭と発音して中国側が「俀」の字をあてたのだ。日本は倭⇒大倭⇒日本と国名が変わったのだ。倭から大倭に変わったのが5世紀後半から6世紀前半であり、もっと言えば531年に倭の天皇、太子、皇子を殺し天皇についたのが、初代大倭の天皇であり、四天王の持国天と考えるのだ。卓淳が滅びたと考えている553年は持国天即位から23年後なのだ。

しかし、持国天は531年に即位したと仮定したとして553年まで生きていたとすると、年号を4つも使っていることになる。一人の天皇の改元としては多すぎると感じるのだ。これまで考えたきた天皇は多くても2つの年号までである。

上宮法皇=上宮豊聡耳皇子(591年~622年) 法興
上宮聖徳法皇=山背大兄王(623年~635年) 聖徳
孝徳天皇=蘇我蝦夷(635年~646年) 僧要・命長
斉明天皇=蘇我入鹿(647年~660年) 倭京・白雉
天智天皇=大海人皇子(661年~677年) 白鳳
天武天皇=高市皇子(678年~697年) 朱鳥・朱雀
持統天皇=大津皇子(698年~700年) 大長

前回の「やはり日羅の暴露こそ下韓返還の原因ではないか」において、敏達天皇12年の日羅事件を根拠もなく欽明13年に移動させたかのように記載したが、明要12年こそ552年であり、欽明13年=明要12年を敏達12年に移動したと考えている。

明要 11年間 辛酉541年元年 541年~551年

明要元年に新しい天皇が即位したと考えれば、持国天は教倒と僧聴の2つの年号となる。しかし、このように考えるとまた新たな問題が浮かび上がってくる。四天王の最後の一人多聞天はすでに上宮法皇たる上宮豊聡耳皇子のことであると考えている以上、結局2人目と3人目の増長天と広目天の年号は4つ以上になってしまうのだ。

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やはり日羅の暴露こそ下韓返還の原因ではないか

前回の「任那滅亡の真相は卓淳滅亡なのか」において卓淳滅亡は553年正月に起こった事件ではないかと考察した。553年正月に新羅は卓淳を滅ぼし、新羅が卓淳を滅ぼし久礼山5城を奪い、6月に久礼山周辺も占領して7月に新州を設置したと考えたのだ。

卓淳滅亡が欽明5年の544年の出来事ではなく、欽明14年の553年の出来事であるのであれば下韓の返還も553年の前年である552年、欽明13年の出来事となる。下韓返還の原因があまり納得できなかったが、倭は援軍を出して平壌奪還に協力したにもかかわらず、百済は平壌を放棄したあげく卓淳を新羅に奪われたとしたら十分な下韓返還理由となるのではないか。

《欽明天皇十二年(五五一)是歳》是歳。百済聖明王親率衆及二国兵〈 二国謂新羅。任那也。 〉往伐高麗。獲漠城之地。又進軍討平壌。凡六郡之地。遂復故地。
《欽明天皇十三年(五五二)是歳》是歳。百済棄漢城与平壌。新羅因此入居漢城。今新羅之牛頭方。尼弥方也。〈 地名。未詳。 〉

また、552年は欽明13年である。1年ずれるが敏達12年には有名な日羅の事件がある。

《敏達天皇十二年(五八三)十月》冬十月。紀国造押勝等還自百済。復命於朝曰。百済国主奉惜日羅、不肯聴上。
《敏達天皇十二年(五八三)是歳》是歳。復遣吉備海部直羽嶋、召日羅於百済。羽嶋既之百済。欲先私見日羅。独自向家門底。俄而有家裏来韓婦。用韓語言。以汝之根、入我根内。即入家去。羽嶋便覚其意、随後而入。於是日羅迎来。把手使坐於座。密告之曰。僕窃聞之。百済国主奉疑天朝。奉遣臣後、留而弗還。所以奉惜不肯奉進。宜宣勅時。現厳猛色、催急召焉。羽嶋乃依其計、而召日羅。於是百済国主怖畏天朝、不敢違勅。奉遣以日羅。恩率徳爾。余怒。哥奴知。参官。柁師徳率次干徳。水手等、若干人。日羅等行到吉備児嶋屯倉。朝庭遣大伴糠手子連、而慰労焉。復遣大夫等於難波館、使訪日羅。是時日羅被甲乗馬、到門底下。乃進庁前、進退跪拝、歎恨而曰。於檜隈宮御寓天皇之世。我君大伴金村大連奉為国家、使於海表火葦北国造刑部靭部阿利斯登之子。臣達率日羅。聞天皇召、恐畏来朝。乃解其甲、奉於天皇。乃営館於阿斗桑市、使住日羅。供給随欲。復遣阿倍目臣・物部贄子連。大伴糠手子連。而問国政於日羅。日羅対言。天皇所以治天下政。要須護養黎民。何遽興兵、翻将失滅。故今令議者仕奉朝列。臣・連。二造。〈 二造者。国造。伴造也。 〉下及百姓。悉皆饒富、令無所乏。如此三年。足食足兵。以悦使民。不憚水火。同恤国難。然後多造船舶。毎津列置。使観客人。令生恐懼。爾乃以能使使於百済。召其国王。若不来者。召其太佐平・王子等来。即自然心生欽伏。後応問罪。又奏言。百済人謀言。有船三百。欲請筑紫。若其実請。宜陽賜予。然則百済欲新造国。必先以女人・小子、載船而至。国家。望於此時。壺岐。対馬多置伏兵。候至而殺。莫翻被詐。毎於要害之所。堅築塁塞矣。於是恩率。参官、臨罷国時。〈 旧本、以恩率為一人。以参官為一人也。 〉窃語徳爾等言。計吾過筑紫許。汝等偸殺日羅者。吾具白王。当賜高爵。身及妻子。垂栄於後。徳爾。余奴皆聴許焉。参官等遂発途於血鹿。於是日羅自桑市村遷難波館。徳爾等昼夜相計将欲殺。時日羅身光、有如火焔。由是徳爾等恐而不殺。遂於十二月晦。候失光殺。日羅更蘇生曰。此是我駆使奴等所為。非新羅也。言畢而死。〈 属是時。有新羅使。故云爾也。 〉天皇詔贄子大連。糠手子連。令収葬於小郡西畔丘前。以其妻子。水手等居于石川。於是大伴糠手子連議曰。聚居一処。恐生其変。乃以妻子、居于石川百済村。水手等居于石川大伴村。収縛徳爾等、置於下百済阿田村。遣数大夫、推問其事。徳爾等伏罪言。信。是恩率。参官教使為也。僕等為人之下、不敢違矣。由是下獄復命於朝庭。乃遣使於葦北。悉召日羅眷族。賜徳爾等。任情決罪。是時葦北君等受而皆殺、投弥売嶋。〈 弥売嶋。蓋姫嶋也。 〉以日羅移葬於葦北。於後海畔者言。恩率之船被風没海。参官之船漂泊津嶋。乃始得帰。

日羅は百済が倭の筑紫を占領すべく軍船を急ピッチで建造しているので、その故を百済に問い筑紫を与えるふりをして対馬で奇襲せよと提言している。日羅は百済の最高機密を惜しげもなく暴露している。それゆえ、従者に日羅は殺されてしまうが百済の真意を知った倭の天皇は激怒したであろう。百済に割譲した下韓を任那に付す決定をしてもおかしくないはずだ。552年10月に一度百済王は日羅の派遣を断るが、11月に日羅は来倭し、12月に津守連が下韓返還の詔を百済にもたらすのである。翌年の553年正月に卓淳は滅亡し久礼山5城を新羅に奪われ、6月に久礼山周辺も占領され7月に新羅は新州を設置するのである。日羅の事件は敏達12年ではなく欽明13年の事件と考えるほうが辻褄が合うのではないか。

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任那滅亡の真相は卓淳滅亡なのか

任那滅亡は562年9月の大加羅滅亡と言われている。

三國史記 卷第四 新羅本紀第四  眞興王
眞興王二十三年(562年) 秋七月 百濟侵掠邊戸 王出師拒之 殺獲一千餘人 九月 加耶叛 王命異斯夫討之 斯多含副之 斯多含領五千騎先馳 入栴檀門 立白旗 城中恐懼 不知所爲 異斯夫引兵臨之 一時盡降 論功 斯多含爲最 王賞以良田及所虜二百口 斯多含三讓 王強之 乃受 其生口放爲良人 田分與戰士 國人美之

しかし、日本書紀では562年正月に任那が滅亡しているのである。

《欽明天皇二三年(五六二)正月》二十三年春正月。新羅打滅任那官家。〈 一本云。二十一年、任那滅焉。忽言任那。別言加羅国。安羅国。斯二岐国。多羅国。卒麻国。古嗟国。子他国。散半下国。乞〓[冫+食]国。稔礼国。合十国。 〉

正月というと嫌でも今まで検討してきた卓淳滅亡を連想させる。欽明5年3月条でも「新羅春取卓淳。」と聖明王は上表文で述べており、春である1月から3月に卓淳が滅んだことがわかる。また、津守連のもたらした下韓返還の詔により3回、百済は任那へ使者を送るが2月に河内直を罵っているのである。

《欽明天皇四年(五四三)十二月是月》是月。乃遣施徳高分。召任那執事与日本府執事。倶答言。過正旦而往聴焉。
《欽明天皇五年(五四四)正月》五年春正月。百済国遣使、召任那執事与日本府執事。倶答言。祭神時到。祭了而往。
《欽明天皇五年(五四四)正月是月》是月。百済復遣使、召任那執事与日本府執事。日本府。任那。倶不遣執事。而遣微者。由是百済不得倶謀建任那国。
《欽明天皇五年(五四四)二月》二月。百済遣施徳馬武。施徳高分屋。施徳斯那奴次酒等。使于任那。謂日本府与任那旱岐等曰。我遣紀臣奈率弥麻沙。奈率己連。物部連奈率用歌多。朝謁天皇。弥麻沙等還自日本。以詔書宣曰。汝等宜共在彼日本府、早建良図、副朕所望。爾其戒之。勿被他誑。又津守連従日本来。〈 百済本記云。津守連己麻奴跪。而語訛不正。未詳。 〉宣詔勅、而問任那之政。故将欲共日本府・任那執事。議定任那之政。奉奏天皇。遺召三廻、尚不来到。由是不得共論図計任那之政。奉奏天皇矣。今欲請留津守連。別以疾使。具申情状、遣奏天皇。当以三月十日、発遣使於日本。此使便到。天皇必須問汝。汝日本府卿。任那旱岐等。各宜発使、共我使人。往聴天皇所宣之詔。別謂河内直。〈 百済本記云。河内直・移那斯。麻都。而語訛未詳其正也。 〉自昔迄今。唯聞汝悪。汝先祖等。〈 百済本記云。汝先那干陀甲背。加臘直岐甲背。亦云。那歌陀甲背。鷹歌岐弥。語訛未詳。 〉倶懐奸偽。誘説。為歌可君〈 百済本記云。為歌岐弥。名有非岐。 〉専信其言、不憂国難。乖背吾心、縦肆暴虐。由是見逐。職汝之由。汝等来住任那。恒行不善。任那日損。職汝之由。汝是雖微。譬猶小火焼焚山野。連延村邑。由汝行悪。当敗任那。遂使海西諸国官家。不得長奉天皇之闕。今遣奏天皇。乞移汝等。還其本処。汝亦往聞。又謂日本府卿。任那旱岐等曰。夫建任那之国。不仮天皇之威。誰能建也。故我思欲就天皇。請将士。而助任那之国。将士之糧、我当須運。将士之数、未限若干。運糧之処、亦難自決。願居一処。倶論可不。択従其善。将奏天皇。故頻遣召。汝猶不来。不得議也。日本府答曰。任那執事、不赴召者。是由吾不遣。不得往之。吾遣奏天皇。還使宣曰。朕当以印歌臣。〈 語訛未詳。 〉遣於新羅。以津守連。遺於百済。汝待聞勅際。莫自労徃新羅。百済也。宣勅如是。会聞印歌臣使於新羅。乃追遣問天皇所宣。詔。曰。日本臣与任那執事。応就新羅。聴天皇勅。而不宣就百済聴命也。後津守連遂来。過此。謂之曰。今余被遣於百済者。将出在下韓之百済郡令。城主。唯聞此説。不聞任那与日本府。会於百済。聴天皇勅。故不徃焉。非任那意。於是任那旱岐等曰。由使来召、便欲徃参。日本府卿不肯発遣。故不徃焉。大王為建任那。触情暁示。覩茲忻喜、難可具申。

河内直を百済の使臣が罵っているが、汝等と言っているので罵られているのは複数であり、延那斯と麻都を連想させる。任那を損なっていると河内直は責められているので2月までに卓淳が滅亡していると思われる。それゆえ、卓淳が正月に滅亡していることも十分考えられるのだ。

しかし、544年に三国史記では卓淳滅亡を連想する記事がないのだ。三国史記で卓淳滅亡を連想させるのは553年の新羅による百済東北部占領である。

眞興王十四年(553年) 春二月 王命所司 築新宮於月城東 黄龍見其地 王疑之 改爲佛寺 賜號曰皇龍 秋七月 取百濟東北鄙 置新州 以阿武力爲軍主 冬十月 娶百濟王女爲小妃

聖明王三十一年(553年) 秋七月 新羅取東北鄙 置新州 冬十月 王女歸于新羅

話はそれるが、553年10月条は新羅本紀と百済本紀で内容が矛盾している。領土を取られても羅済同盟維持のために王女を新羅王に送ったと考えていたが、新羅本紀の内容と矛盾してるとは気がつかなかった。羅済同盟維持のため王女を送ったが、新羅王の王女に対する扱いが酷かったので1カ月もたずに帰国したとも考えられるが、前年の552年に嫁いで553年に帰国したと考えるほうが妥当であろう。

話を戻して、新羅による百済東北部占領と新州の設置とは、春に新羅が卓淳を滅ぼし久礼山5城を奪い、6月に久礼山周辺も占領して7月に新州を設置したと考えるのである。日本書紀では任那が新羅の西南に位置していると明記している。

《崇神天皇六五年(戊子前三三)七月》六十五年秋七月。任那国遣蘇那曷叱知令朝貢也。任那者。去筑紫国二千余里。北阻海以在鶏林之西南

鶏林とは新羅の古名である。鶏林は「チーリン」と読み中国の吉林と同じ読みとのことだ。任那が新羅の西南に存在するのであれば、任那の東北に新羅が存在するのである。また、下韓には百済の群令城主がおり百済領であったからこそ任那に付すと詔がでたのである。下韓が卓淳と考えているわけではないが、久礼山に百済の守備兵がいたことから新羅は久礼山周辺は百済領と考え、百済も百済領と考えていたと思われるのである。百済東北部とは卓淳と久礼山周辺のことではないか。

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欽明5年3月条にみる卓淳滅亡

欽明5年3月条の聖明王の上表文を振り返ってみよう。

《欽明天皇五年(五四四)三月》三月。百済遺奈率阿〓得文。許勢奈率歌麻。物部奈率歌非等。上表曰。奈率弥麻沙。奈率己連等、至臣蕃。奉詔書曰。爾等宜共在彼日本府、同謀善計。早建任那。爾其戒之。勿被他誑。又津守連等至臣蕃。奉勅書。問建任那。恭承来勅。不敢停時。為欲共謀。乃遣使召日本府〈 百済本記云。遣召烏胡跛臣。蓋是的臣也。 〉与任那。倶対言。新年既至。願過而徃。久而不就。復遣使召。倶対言。祭時既至。願過而往。久而不就。復遣使召。而由遣微者。不得同計。夫任那之不赴召者。非其意焉。是阿賢移那斯。佐魯麻都。〈 二人名也。已見上文。 〉奸佞之所作也。夫任那者以安羅為兄。唯従其意。安羅人者。以日本府為天。唯従其意。〈 百済本記云。以安羅為父。以日本府為本也。 〉今的臣。吉備臣。河内直等。咸従移那斯。麻都指〓而已。移那斯。麻都。雖是小家微者。専擅日本府之政。又制任那。障而勿遣。由是不得同計奏答天皇。故留己麻奴跪。〈 蓋是津守連也。 〉別遣疾使迅如飛烏。奉奏天皇。仮使二人。〈 二人者。移那斯与麻都也。 〉在於安羅。多行奸佞。任那難建。海西諸国。必不獲事。伏請移此二人。還其本処。勅唹日本府与任那。而図建任那。故臣遣奈率弥麻沙。奈率己連等。副己麻奴跪、上表以聞。於是詔曰。的臣等。〈 等者謂吉備弟君臣。河内直等也。 〉往来新羅、非朕心也。襄者。印支弥〈 未詳。 〉与阿鹵旱岐在時。為新羅所逼。而不得耕種。百済路迥。不能救急。由的臣等往来新羅。方得耕種。朕所曾聞。若已建任那。移那斯。麻都。自然却退。豈足云乎。伏承此詔。喜懼兼懐。而新羅誑朝。知匪天勅。新羅春取〓淳。仍擯出我久礼山戍。而遂有之。近安羅処。安羅耕種。近久礼山処。新羅耕種。各自耕之不相侵奪。而移那斯。麻都。過耕他界。六月逃去。於印支弥後来許勢臣時。〈 百済本記云。我留印支弥之後。至既酒臣時。皆未詳。 〉新羅無復侵逼他境。安羅不言為新羅逼不得耕種。臣嘗聞。新羅毎春秋。多聚兵甲。欲襲安羅与荷山。或聞。当襲加羅。頃得書信。便遣将士。擁守任那。無懈怠也。頻発鋭歌兵。応時往救。是以任那随序耕種。新羅不敢侵逼。而奏百済路迥。不能救急。由的臣等往来新羅。方得耕種。是上欺天朝。転成奸佞也。暁然若是。尚欺天朝。自余虚妄。必多有之。的臣等猶住安羅。任那之国恐難建立。宜早退却。臣深懼之。佐魯麻都雖是韓腹。位居大連。廁日本執事之間。入栄班貴盛之之例。而今反著新羅奈麻礼冠。即身心帰附。於他易照。熟観所作。都無怖畏。故前奏悪行。具録聞訖。今猶著他服。日赴新羅域。公私往還。都無所憚。夫喙国之滅。匪由他也。喙国之函跛旱岐。弐心加羅国。而内応新羅。加羅自外合戦。由是滅焉。若使函跛旱岐不為内応。喙国雖小。未必亡也。至於卓淳。亦復然之。仮使卓淳国主不為内応新羅招冦。豈至滅歌乎。歴観諸国敗亡之禍。皆由内応弐心人者。今麻都等腹心新羅。遂着其服。徃還旦夕。陰搆〓心。乃恐、任那由茲永滅。任那若滅。臣国孤危。思欲朝之。豈復得耶。伏願天皇玄鑑遠察。速移本処。以安任那。

1.奈率弥麻沙、奈率己連等が倭より天皇の上表文を持ち帰る。日本府と共に任那復興を急がせる。他に騙されないようにとのこと。

2.津守連が百済に来て、下韓の百済郡令城主の任那への帰属、任那復興の督促。

3.百済が日本府へ3回使者を送るも日本府と任那復興を協議することができず。移那斯と麻都の妨害あり。百済は倭が新羅と通じていると疑う。

4.百済が倭へ疾使を送り移那斯と麻都の追放と任那へ百済と協議するよう勅をだすことを嘆願。卓淳滅亡。久礼山も新羅に占領される。

5.百済と任那が三策を練り、津守連に添えて百済が遣使して上奏。倭が新羅と通じていないことが判明。久礼山周辺の耕作地の安羅と新羅の配分が事実上決定していることがわかる。

6.久礼山周辺も安羅が逃げ新羅が占領。百済は移那斯と麻都の追放を求めて再度遣使。

以上がこれまで検討して判明した卓淳滅亡前後の流れである。赤字は勝手に補った部分だが、津守連の携えてきた上表文の内容に百済が返答しない限り、津守連が帰国するとは考えられないのだ。

聖明王の在位中までに喙国、南加羅、卓淳が滅亡している。少なくとも、聖明王が死ぬ554年7月までに喙国、南加羅、卓淳が滅んだということである。

三國史記 卷第二十六 百済本紀第四  聖王
聖明王三十二年(554年) 秋七月 王欲襲新羅 親帥歩騎五十 夜至狗川 新羅伏兵發與戰 爲亂兵所害薨 諡曰聖

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任那卓淳滅亡 (その9)

長かった聖明王の三策の検討も終わり、欽明紀5年3月条の聖明王の上表文の赤文字部分についてである。

《欽明天皇五年(五四四)三月》三月。百済遺奈率阿〓得文。許勢奈率歌麻。物部奈率歌非等。上表曰。奈率弥麻沙。奈率己連等、至臣蕃。奉詔書曰。爾等宜共在彼日本府、同謀善計。早建任那。爾其戒之。勿被他誑。又津守連等至臣蕃。奉勅書。問建任那。恭承来勅。不敢停時。為欲共謀。乃遣使召日本府〈 百済本記云。遣召烏胡跛臣。蓋是的臣也。 〉与任那。倶対言。新年既至。願過而徃。久而不就。復遣使召。倶対言。祭時既至。願過而往。久而不就。復遣使召。而由遣微者。不得同計。夫任那之不赴召者。非其意焉。是阿賢移那斯。佐魯麻都。〈 二人名也。已見上文。 〉奸佞之所作也。夫任那者以安羅為兄。唯従其意。安羅人者。以日本府為天。唯従其意。〈 百済本記云。以安羅為父。以日本府為本也。 〉今的臣。吉備臣。河内直等。咸従移那斯。麻都指〓而已。移那斯。麻都。雖是小家微者。専擅日本府之政。又制任那。障而勿遣。由是不得同計奏答天皇。故留己麻奴跪。〈 蓋是津守連也。 〉別遣疾使迅如飛烏。奉奏天皇。仮使二人。〈 二人者。移那斯与麻都也。 〉在於安羅。多行奸佞。任那難建。海西諸国。必不獲事。伏請移此二人。還其本処。勅唹日本府与任那。而図建任那。故臣遣奈率弥麻沙。奈率己連等。副己麻奴跪、上表以聞。於是詔曰。的臣等。〈 等者謂吉備弟君臣。河内直等也。 〉往来新羅、非朕心也。襄者。印支弥〈 未詳。 〉与阿鹵旱岐在時。為新羅所逼。而不得耕種。百済路迥。不能救急。由的臣等往来新羅。方得耕種。朕所曾聞。若已建任那。移那斯。麻都。自然却退。豈足云乎。伏承此詔。喜懼兼懐。而新羅誑朝。知匪天勅。新羅春取〓淳。仍擯出我久礼山戍。而遂有之。近安羅処。安羅耕種。近久礼山処。新羅耕種。各自耕之不相侵奪。而移那斯。麻都。過耕他界。六月逃去。於印支弥後来許勢臣時。〈 百済本記云。我留印支弥之後。至既酒臣時。皆未詳。 〉新羅無復侵逼他境。安羅不言為新羅逼不得耕種。臣嘗聞。新羅毎春秋。多聚兵甲。欲襲安羅与荷山。或聞。当襲加羅。頃得書信。便遣将士。擁守任那。無懈怠也。頻発鋭歌兵。応時往救。是以任那随序耕種。新羅不敢侵逼。而奏百済路迥。不能救急。由的臣等往来新羅。方得耕種。是上欺天朝。転成奸佞也。暁然若是。尚欺天朝。自余虚妄。必多有之。的臣等猶住安羅。任那之国恐難建立。宜早退却。臣深懼之。佐魯麻都雖是韓腹。位居大連。廁日本執事之間。入栄班貴盛之之例。而今反著新羅奈麻礼冠。即身心帰附。於他易照。熟観所作。都無怖畏。故前奏悪行。具録聞訖。今猶著他服。日赴新羅域。公私往還。都無所憚。夫喙国之滅。匪由他也。喙国之函跛旱岐。弐心加羅国。而内応新羅。加羅自外合戦。由是滅焉。若使函跛旱岐不為内応。喙国雖小。未必亡也。至於卓淳。亦復然之。仮使卓淳国主不為内応新羅招冦。豈至滅歌乎。歴観諸国敗亡之禍。皆由内応弐心人者。今麻都等腹心新羅。遂着其服。徃還旦夕。陰搆〓心。乃恐、任那由茲永滅。任那若滅。臣国孤危。思欲朝之。豈復得耶。伏願天皇玄鑑遠察。速移本処。以安任那。

聖明王は三策を練り、津守連と共に倭へ遣使を送ることで倭と新羅が通じていないことがわかったのだ。安心したのもつかの間、安羅が6月に逃げてしまい新羅に久礼山周辺も占領されてしまったようだ。なお、安羅と新羅の懸案になっている、久礼山周辺の耕作地の配分は上表文の時点では定まっているようだが、以下の記事では久礼山周辺の耕作地の分配が定まっていないようなのである。

《欽明天皇二年(五四一)四月》夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。久取柔利。加羅上首位古殿奚。卒麻旱岐。散半奚旱岐児。多羅下旱岐夷他。斯二岐旱岐児。子他旱岐等。与任那日本府吉備臣。〈 闕名字。 〉往赴百済、倶聴詔書。百済聖明王謂任那旱岐等言。日本天皇所詔者。全以復建任那。今用何策、起建任那。盍各尽忠奉展聖懐。任那旱岐等対曰。前再三廻、与新羅議而無答報所図之旨。更告新羅、尚無所報。今宜倶遣使、徃奏天皇。夫建任那者。爰在大王之意。祗承教旨。誰敢間言。然任那境接新羅。恐致卓淳等禍。〈 等謂〓己呑・加羅。言卓淳等国、有敗亡之禍。]聖明王曰。昔我先祖速古王。貴首王之世。安羅。加羅。卓淳旱岐等。初遣使、相通。厚結親好。以為子弟。冀可恒隆。而今被誑新羅、使天皇忿怒、而任那憤恨。寡人之過也。我深懲悔。而遣下部中佐平麻鹵。城方甲背昧奴等赴加羅、会于任那日本府相盟。以後繋念。相続、図建任那。旦夕無忘。今天皇詔称。速建任那。由是欲共爾曹謨計。樹立任那国。宜善図之。又於任那境。徴召新羅。問聴与不。乃倶遣使、奏聞天皇。恭承示教。儻如使人未還之際。新羅候隙、侵逼任那。我当往救。不足為憂。然善守備。謹警無忘。別汝所道。恐致卓淳等禍。非新羅自強故所能為也。其〓己呑。居加羅与新羅境際。而被連年攻敗。任那無能救援。由是見亡。其南加羅。〓爾狭小。不能卒備。不知所託。由是見亡。其卓淳上下携弐。主欲自附。内応新羅。由是見亡。因斯而観、三国之敗。良有以也。昔新羅請援於高麗。而攻撃任那与百済。尚不剋之。新羅安独滅任那乎。今寡人与汝戮力并心。翳頼天皇。任那必起。因贈物各有差。忻忻而還。

欽明2年4月の記事だが、内容からして欽明5年4月の記事ではないか。任那の首脳陣は新羅に再三使者を送っているが返答がないという。内容は久礼山周辺の耕作地の配分問題ではないか。また、卓淳が滅んだ時点よりも前に新羅と高句麗の連合軍と百済と任那の連合軍は戦っているが、百済・任那連合軍は高句麗・新羅連合軍を撃退しているようだ。しかし、日本書紀では卓淳が滅んだ後に高句麗と新羅の連合軍が攻めてくるようなのである。

《欽明天皇十四年(五五三)八月丁西【七】》八月辛卯朔丁酉。百済遺上部奈率科野新羅。下部固徳〓休帯山等、上表曰。去年臣等同議、遣内臣徳率次酒。任那大夫等。奏海表諸弥移居之事。伏待恩詔、如春草之仰甘雨也。今年忽聞。新羅与狛国通謀云。百済与任那、頻詣日本。意謂是乞軍兵、伐我国歟。事若実者。国之敗亡、可企踵而待。庶先日本兵未発之間。伐取安羅、絶日本路。其謀若是。臣等聞茲、深懐危〓。即遣疾使軽舟。馳表以聞。伏願。天慈速遣前軍後軍。相続来救。逮于秋節、以固海表弥移居也。若遅晩者、噬臍無及矣。所遣軍衆、来到臣国。衣糧之費。臣当充給。来到任那、亦復如是。若不堪給。臣必助充、令無乏少。別的臣敬受天勅。来撫臣蕃。夙夜乾乾、勤修庶務。由是、海表諸蕃、皆称其善。謂当万歳粛清海表。不幸云亡。深用追痛。今任那之事、誰可修治。伏願天慈速遣其代。以鎮任那。又復海表諸国、甚乏弓馬。自古迄今。受之天皇。以禦強敵。伏願天慈多〓[貝+兄]弓馬。

553年は聖明王が平壌を高句麗より奪還するも翌年に撤退した後の話である。百済のあまりの領土拡大を恐れた新羅が百済との同盟を破棄して高句麗と組んで百済を潰しにかかるのは国防上当然のことであろう。高句麗と新羅の連合が553年時点で妥当であれば、卓淳が滅んだのは553年以降であり、聖明王が戦死する554年までの間となり、553年正月か554年正月と考えられるのである。三国史記の新羅本紀には553年7月に百済の東北部を新羅が奪い新州を設置した記事があり、これが6月に安羅が逃げた結果であれば553年正月が卓淳として正しい時系列となるのではないか。

さて、倭の天皇は的臣等により新羅に圧迫された安羅の耕作地を耕作できるようになったと認識しているが、聖明王の上表文によると印支弥から許勢臣までの間に新羅が圧迫してきたことはなく、そのような事実がないから安羅も新羅に圧迫されたなどと倭へ報告したことがないはずなので、移那斯と麻都の言うことは信用するなと聖明王は暗に主張している。

また、新羅は毎年安羅と荷山を攻めているが百済が防いでいると暗に下韓に郡令城主を置いた成果を主張しているのだ。しかし、百済から久礼山までは遠く、百済軍を急行させることができないので的臣等らが新羅へ行き来することにより新羅に耕作地を奪われてしまったと述べているのである。原因は、任那が爾林を占領し帯山城を築くことで百済から久礼山への東道を塞いでしまったために、新羅に久礼山周辺の耕作地まで占領されたと考えることはできないだろうか。

《顕宗天皇三年(丁卯四八七)是歳》是歳。紀生磐宿禰跨拠任那。交通高麗。将西王三韓、整脩宮府。自称神聖。用任那左魯・那奇。他甲肖等計、殺百済適莫爾解於爾林。〈 爾林、高麗地也。 〉築帯山城、距守東道。断運糧津、令軍飢困。百済王大怒、遣領軍古爾解。内頭莫古解等。率衆趣于帯山攻。於是。生磐宿禰進軍逆撃。胆気益壮。所向皆破。以一当百。俄而兵尽力竭。知事不済。自任那帰。由是。百済国殺佐魯・那奇。他甲肖等三百余人。

ただ、帯山城により東道を塞ぎ、百済軍を飢えさせる最高のタイミングは百済が平壌を占領して兵站が伸びきった時期が最も効果的なのである。百済の平壌占領後に任那によって百済軍が飢えたので平壌を捨てて撤退したと考えると合点がいくのだ。

話を元に戻して、的臣等が安羅に住んでいると任那復興は難しいと百済は考えている。佐魯麻都については純粋な倭人でないにもかかわらず大連なのだ。日本書紀には佐魯麻都を大連に任命した記事は存在しない。しかし、新撰姓氏録には日本書紀には存在しない欽明紀の大連が存在する。

小治田宿祢 宿祢 石上同祖   欽明天皇御代。依墾開小治田鮎田。賜小治田大連

石上同祖となっているので物部氏系のようだが、佐魯麻都の大連就任は謎である。佐魯麻都などは新羅の奈麻礼冠をつけている。多沙津の百済割譲以降に加羅王が新羅王女を娶った従者100人が奈麻礼冠を配ったものをそのまま佐魯麻都らは身に着けているのだ。聖明王は卓淳等が滅びた理由も任那と新羅に二心があったのが原因であり、麻都や移那斯等は必ず任那復興の障害となるので重ねてもとの所へ戻すよう強く倭の天皇に依頼している。欽明5年3月条の聖明王の上表文については以上である。

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任那卓淳滅亡 (その8)

前回の「任那卓淳滅亡 (その6)」の続きである。

聖明王は任那復興の三策を伝えるため、津守連に添えて使者を送る。天皇は的臣等が新羅へ行き来しているのは朕の心にあらず。印支弥と阿鹵旱岐がいた頃に新羅が圧迫してきて耕作ができなかった。百済も離れており急いで対応することができなかったが、印支弥が新羅へ行き耕作できるようになったとかつて聞いたことがある。もし任那が復興すれば移那斯と麻都は退くことは言うまでもない、と。百済はその詔を聞いて倭と新羅が通じていないことを知り喜ぶのである。

倭と新羅は通じていないが、安羅と新羅は通じていた。また、安羅は高句麗とも後年通じている。

《欽明天皇九年(五四八)四月甲子【三】》九年夏四月壬戌朔甲子。百済遣中部柾率掠葉礼等奏曰。徳率宣文等奉勅至臣蕃曰。所乞救兵、応時遣送。祗承恩詔。喜慶無限。然馬津城之役〈 正月辛丑。高麗卒衆囲馬津城。 〉虜謂之曰。由安羅国与日本府招来勧罰罰。以事准況。寔当相似。然三廻欲審其言、遣召。而並不来。故深労念。伏願。可畏天皇〈 西蕃皆称日本天皇、為可畏天皇。 〉先為勘当。躄停所乞救兵。待臣遣報。詔曰。式聞呈奏。爰覿所憂。日本府与安羅、不救隣難。亦朕所疾也。又復密使于高麗者。不可信也。朕命即自遣之。不命何容可得。願王開襟緩帯。恬然自安。勿深疑懼。宜共任那、依前勅。戮力倶防北敵。各守所封。朕当遣送若干人。充実安羅逃亡空地。《欽明天皇九年(五四八)六月壬戌【二】》六月辛酉朔壬戌。遣使詔于百済曰。徳率宣文取帰以後。当復何如。消憩何如。朕聞。汝国為狛賊所害。宜共任那策励。同謀、如前防距。
《欽明天皇九年(五四八)閏七月辛未【十二】》閏七月庚申朔辛未。百済使人掠葉礼等罷帰。
《欽明天皇九年(五四八)十月》冬十月。遣三百七十人於百済、助築城於得爾辛。
《欽明天皇十年(五四九)六月辛卯【七】》十年夏六月乙酉朔辛卯。将徳久貴。固徳馬次文等請罷帰。因詔曰。延那斯。麻都。陰私遣使高麗者。朕当遣問虚実。所乞軍者、依願停之。
《欽明天皇十一年(五五〇)二月庚寅【十】》十一年春二月辛巳朔庚寅。遣使詔于百済〈 百済本記云。三月十二日辛酉。日本使人阿比多率三舟、来至都下。 〉曰。朕依将徳久貴。固徳馬進文等所上表意、一一教示、如視掌中。思欲具情。冀将尽抱。大市頭帰後。如常無異。今但欲審報辞。故遣使之。又復朕聞。奈率馬武是王之股肱臣也。納上伝下。甚協王心、而為王佐。若欲国家無事。長作官家、永奉天皇。宜以馬武為大使。遣朝而已。重詔曰。朕聞。北敵強暴。故賜矢三十具。庶防一処。
《欽明天皇十一年(五五〇)四月庚辰朔》夏四月庚辰朔。在百済日本王人、方欲還之。〈 百済本記云。四月一日庚辰。日本阿比多還也。 〉百済王聖明謂王人曰。任那之事奉勅堅守。延那斯。麻都之事。問与不問、唯従勅之。因献高麗奴六口。別贈王人奴一口。〈 皆攻爾林、所禽奴也。 〉
《欽明天皇十一年(五五〇)四月乙未【十六】》乙未。百済遣中部奈率皮久斤。下部施徳灼干那等。献狛虜十口。

安羅と高句麗が通じていたことが発覚した発端は、548年正月に高句麗が馬津城を囲んだ際の高句麗兵の捕虜からの証言である。三国史記にも対応する記事がある。

眞興王九年(548年) 春二月 高句麗與穢人 攻百濟獨山城 百濟請救 王遣將軍朱玲 領勁卒三千撃之 殺獲甚衆

聖明王二十六年(548年) 春正月 高句麗王平成 與謀 攻漢北獨山城 王遣使請救於新羅 羅王命將軍朱珍 領甲卒三千發之 朱珍日夜兼程 至獨山城下 與麗兵一戰 大破之

獨山城を高句麗と穢の連合軍が囲んだのだ。新羅本紀は2月で百済本紀は1月と1ヶ月ずれているが、百済が援軍を請うたのが2月だったのであろう。新羅の援軍により高句麗軍を撃退することに成功した百済であったが、捕虜への尋問により安羅が高句麗をけしかけた事実が判明したのである。なお馬津城と独山城は別の城のように名前が違うが同じ城であろう。三国史記の地理に記載がある。

支 州九縣: 已汶縣, 本今勿; 支 縣, 本只 村; 馬津縣, 本孤山; 子來縣, 本夫首只; 解禮縣, 本皆利伊; 古魯縣, 本古麻只; 平夷縣, 本知留; 珊瑚縣, 本沙好薩; 隆化縣, 本居斯勿

馬津県はもと孤山であったという。「孤」と「独」は同義語であり、孤山=独山であろう。日本書紀編纂当時は独山城は馬津城と呼ばれていたのではないか。

安羅と高句麗が通じたことを受け、百済は安羅へ使者を送るが3回呼んでもこないという。まさに、聖明王の上表文の3回呼んでも任那復興会議が開けない状況と同じなのである。

倭の天皇は聖明王に襟を開き帯を緩めるよう諭している。前の勅の通り任那と復興を図るよう聖明王に指示し、北敵を防ぐために各所を守る兵と安羅が逃げた地に1000人の兵を派遣すると言う。どうみても聖明王の三策に対応する記述である。安羅が逃げたのは6月であるから4月の倭の天皇の言葉ではなく、6月以降の倭の天皇の言葉と思われる。

百済聖明王による任那復興の三策。
1.六つの城を修繕し、倭の兵を500人ずつ配置すれば、久礼山の五つの城も自然と降伏し卓淳も復興する。
2.南韓に郡令と城主を置くのは天皇に背き任那の朝貢を阻むものではなく、新羅から任那を守るためのものである。
3.吉備臣、河内直、移那斯、麻都の計4名の追放。

その後、倭は安羅と日本府がやはり、高句麗に通じているのではと考えるようになったようだが、倭から百済への遣使において倭の天天皇は掌中を見せるがごとく一つ一つ教示しようと百済に言っている。これこそ、欽明5年3月の聖明王の上表文に答えた倭の天皇の言葉と思われるのである。なぜなら、欽明5年3月の聖明王の上表文はこれまでの百済と日本府とのやり取りを時系列で語り、延那斯と麻都の悪行の数々を告発しているのであり一つ一つ丁寧に倭の天皇へ上奏しているからである。また、倭から百済へ大市頭という百済の使者が帰国したようだが、日本書紀には他に登場しない。考えられるのは大市頭というのは倭での呼び名であって、百済での本名は別にあると考えられる。おそらく倭で出家して大市頭になったなどの理由ではないか。

最終的に聖明王は任那は勅に従って堅く守り、延那斯と麻都の事は問うとも問わずとも勅のままならん、と述べている。延那斯と麻都を聖明王が殺したのであれば納得いくが、聖明王の言葉はどこか怒りを我慢しているようにも感じる。延那斯と麻都は健在だが安羅が高句麗と通じた件は印君の追放で手打ちとなったとも考えられる。爾林(ニリム)を攻めた時の捕虜を百済が献じているが、以下の記事を連想させる。

《顕宗天皇三年(丁卯四八七)是歳》是歳。紀生磐宿禰跨拠任那。交通高麗。将西王三韓、整脩宮府。自称神聖。用任那左魯・那奇。他甲肖等計、殺百済適莫爾解於爾林。〈 爾林、高麗地也。 〉築帯山城、距守東道。断運糧津、令軍飢困。百済王大怒、遣領軍古爾解。内頭莫古解等。率衆趣于帯山攻。於是。生磐宿禰進軍逆撃。胆気益壮。所向皆破。以一当百。俄而兵尽力竭。知事不済。自任那帰。由是。百済国殺佐魯・那奇。他甲肖等三百余人。

上記の記事より麻都と延那斯は百済に殺され、紀生磐宿禰は任那より追放となったと考えることができる。聖明王の問うとも問わずともに対応しているのである。

任那を鎮め、百済は高句麗征伐へと乗り出す。10人の高句麗の捕虜は道薩城を奪ったときの捕虜であろう。

聖明王二十八年(550年) 春正月 王遣將軍達已 領兵一萬 攻取高句麗道薩城 三月 高句麗兵圍金□城

なお、道薩城は薩水という河に通じる城であろう、薩水を遡ると高句麗の首都である平壌へたどり着くのである。

このように欽明5年3月の聖明王の上表文から安羅と新羅が通じたと聖明王は思っていたが、安羅と高句麗が通じた記事と聖明王の上表文もリンクしているのである。最後に安羅と高句麗が通じた記事に似ている記事が雄略紀にある。

《雄略天皇八年(甲辰四六四)二月》八年春二月。遣身狭村主青。檜隈民使博徳使於呉国。自天皇即位至于是歳。新羅国背誕。苞苴不入。於今八年。而大懼中国之心。脩好於高麗。由是高麗王遣精兵一百人。守新羅。有頃、高麗軍士一人取仮帰国。時以新羅人為典馬。〈 典馬。此云于麻柯毘。 〉而顧謂之曰。汝国為吾国所破非久矣。〈 一本云。汝国果成吾士非久矣。 〉其典馬聞之。陽患其腹。退而在後。遂逃入国、説其所語。於是新羅王乃知高麗偽守。遣使馳告国人曰。人殺家内所養鶏之雄者。国人知意。尽殺国内所有高麗人。惟有遣高麗一人。乗間得脱、逃入其国。皆具為説之。高麗王即発軍兵。屯聚筑足流城。〈 或本云。都久斯岐城。 〉遂歌〓興楽。於是。新羅王夜聞高麗軍四面歌〓。知賊尽入新羅地。乃使人於任那王曰。高麗王征伐我国。当此之時若綴旒。然国之危殆、過於累卵。命之脩短、大所不計。伏請救於日本府行軍元帥等。由是任那王勧膳臣斑鳩。〈 斑鳩。此云伊柯屡餓。 〉吉備臣小梨。難波吉士赤目子。徃救新羅。膳臣等未至営止。高麗諸将未与膳臣等相戦皆怖。膳臣等乃自力労軍。令軍中促為攻具、急進攻之。与高麗相守十余日。乃夜鑿険為地道。悉過輜車、設奇兵。会明、高麗謂。膳臣等為遁也。悉軍来追。乃縦奇兵。歩・騎夾攻。大破之。二国之怨、自此而生。〈 言二国者。高麗・新羅也。 〉膳臣等謂新羅曰。汝以至弱、当至強。官軍不救。必為所乗。将成人地、殆於此役。自今以後。豈背天朝也。

任那と高句麗が通じた記事にも、任那と新羅が通じていた記事にも関連がありそうなエピソードである。多沙津が百済へ割譲された後、加羅王は新羅王女を娶るが新羅の従者達100人は新羅の官服を加羅で配り、新羅化をもくろむのである。怒った加羅王は従者達を新羅へ帰国させるが、帰国の際に新羅の従者が加羅は近い将来、我が新羅に滅ぼされると捨て台詞を吐いたのだ。加羅王は任那日本府に助けを乞い、任那日本府は倭へ援軍要請をする。倭は援軍を派遣し、新羅より美女二人を手に入れ蹈鞴津の草羅城を抜いた後に加羅を占有する。次に百済の占領していた爾林を奪うが、倭と百済の連合軍の反撃に遭い、佐魯と延那斯は戦死、倭の将軍も任那追放となるのである。倭の反乱軍討伐の将軍大伴連狭手彦は任那を鎮め、聖明王と共に高句麗討伐へ向かうのである。暫定的な仮定であるが、このように考えることも可能なはずだ。

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任那卓淳滅亡 (その7)

前回の「任那卓淳滅亡 (その5)」の続きである。

百済聖明王による任那復興の三策の最後についてである。

1.六つの城を修繕し、倭の兵を500人ずつ配置すれば、久礼山の五つの城も自然と降伏し卓淳も復興する。
2.南韓に郡令と城主を置くのは天皇に背き任那の朝貢を阻むものではなく、新羅から任那を守るためのものである。
3.吉備臣、河内直、移那斯、麻都の計4名の追放。

吉備臣、河内直、移那斯、麻都の計4名の追放については、まず吉備臣についてである。日本書紀は吉備臣とは聖明王の上表文において吉備弟君臣としている。吉備弟君臣と同一人物と思われる吉備臣弟君が雄略紀の任那関連の記事に登場するのである。

《雄略天皇七年(癸卯四六三)是歳》是歳。吉備上道臣田狭侍於殿側。盛称稚媛於朋友曰。天下麗人莫若吾婦。茂矣綽矣。諸好備矣。曄矣温矣。種相足矣。鉛花弗御。蘭沢無加。曠世罕儔。当時独秀者也。天皇傾耳。遥聴、而心悦焉。便欲自求稚媛為女御。拝田狭、為任那国司。俄而天皇幸稚媛。田狭臣娶稚媛、而生兄君。弟君也。〈 別本云。田狭臣婦名毛媛者。葛城襲津彦子。玉田宿禰之女也。天皇聞体貌閑麗。殺夫自幸焉。 〉田狭既之任所、聞天皇之幸其婦。思欲求援而入新羅。于時。新羅不事中国。天皇詔田狭臣子弟君与吉備海部直赤尾曰。汝宜往罰新羅。於是。西漢才伎歓因知利在側。乃進而奏曰。巧於奴者、多在韓国。可召而使。天皇詔群臣曰。然則宜以歓因知利副弟君等。取道於百済。并下勅書。令献巧者。於是。弟君銜命。率衆行、到百済而入其国。国神化為老女。忽然逢路。弟君就訪国之遠近。老女報言。復行一日、而後可到。弟君自思路遠不伐而還。集聚百済所貢今来才伎於大嶋中。託称候風。淹留数月。任那国司田狭臣乃喜弟君不伐而還。密使人於百済。戒弟君曰。汝之領項有何〓錮。而伐人乎。伝聞。天皇幸吾婦遂有児息。〈 児息已見上文 〉今恐。禍及於身、可〓足待。吾児汝者。跨拠百済。勿使通於日本。吾者拠有任那。亦勿通於日本。弟君之婦樟媛。国家情深。君臣義切。忠踰白日。節冠青松。悪斯謀叛盗殺其夫。隠埋室内。乃与海部直赤尾将百済所献手末才伎、在於大嶋。天皇聞弟君不在。遣日鷹吉士堅磐・固安銭。〈 堅磐。此云柯陀之波。 〉使共復命。遂即安置於倭国吾礪広津邑。而病死者衆。〈 広津。此云比盧岐頭。 〉由是、天皇詔大伴大連室屋。命東漢直掬。以新漢陶部高貴。鞍部堅貴。画部因斯羅我。錦部定安那錦。訳語卯安那等、遷居于上桃原〓。下桃原。真神原三所。〈 或本云。吉備臣弟君還自百済。献漢手人部。衣縫部。宍人部。 〉

吉備臣弟君は天皇より新羅討伐を命じられるが、百済から新羅への道が遠いとわかり新羅を討たずに引き返してしまうのである。任那国司だった吉備臣弟君の父親である田狭臣は新羅を討たなかったことを喜び、田狭臣自身は任那を所有して独立するので吉備臣弟君は百済に亡命しろと密使を通じて伝えるのである。また、ここでも大嶋が登場する。

吉備臣弟君に対して神様が老婆になって新羅を討つなといっているが、新羅王が美女二人を差し出したので討たなかったとしたら三韓征伐に繋がる記事なのではないか。

また、追放された河内直については百済に激しく罵られた際に、歌可君という人物が河内直の言葉を信じたばっかりに追放されたといわれている。

《欽明天皇五年(五四四)二月》二月。百済遣施徳馬武。施徳高分屋。施徳斯那奴次酒等。使于任那。謂日本府与任那旱岐等曰。我遣紀臣奈率弥麻沙。奈率己連。物部連奈率用歌多。朝謁天皇。弥麻沙等還自日本。以詔書宣曰。汝等宜共在彼日本府、早建良図、副朕所望。爾其戒之。勿被他誑。又津守連従日本来。〈 百済本記云。津守連己麻奴跪。而語訛不正。未詳。 〉宣詔勅、而問任那之政。故将欲共日本府・任那執事。議定任那之政。奉奏天皇。遺召三廻、尚不来到。由是不得共論図計任那之政。奉奏天皇矣。今欲請留津守連。別以疾使。具申情状、遣奏天皇。当以三月十日、発遣使於日本。此使便到。天皇必須問汝。汝日本府卿。任那旱岐等。各宜発使、共我使人。往聴天皇所宣之詔。別謂河内直。〈 百済本記云。河内直・移那斯。麻都。而語訛未詳其正也。 〉自昔迄今。唯聞汝悪。汝先祖等。〈 百済本記云。汝先那干陀甲背。加臘直岐甲背。亦云。那歌陀甲背。鷹歌岐弥。語訛未詳。 〉倶懐奸偽。誘説。為歌可君〈 百済本記云。為歌岐弥。名有非岐。 〉専信其言、不憂国難。乖背吾心、縦肆暴虐。由是見逐。職汝之由。汝等来住任那。恒行不善。任那日損。職汝之由。汝是雖微。譬猶小火焼焚山野。連延村邑。由汝行悪。当敗任那。遂使海西諸国官家。不得長奉天皇之闕。今遣奏天皇。乞移汝等。還其本処。汝亦往聞。又謂日本府卿。任那旱岐等曰。夫建任那之国。不仮天皇之威。誰能建也。故我思欲就天皇。請将士。而助任那之国。将士之糧、我当須運。将士之数、未限若干。運糧之処、亦難自決。願居一処。倶論可不。択従其善。将奏天皇。故頻遣召。汝猶不来。不得議也。日本府答曰。任那執事、不赴召者。是由吾不遣。不得往之。吾遣奏天皇。還使宣曰。朕当以印歌臣。〈 語訛未詳。 〉遣於新羅。以津守連。遺於百済。汝待聞勅際。莫自労徃新羅。百済也。宣勅如是。会聞印歌臣使於新羅。乃追遣問天皇所宣。詔。曰。日本臣与任那執事。応就新羅。聴天皇勅。而不宣就百済聴命也。後津守連遂来。過此。謂之曰。今余被遣於百済者。将出在下韓之百済郡令。城主。唯聞此説。不聞任那与日本府。会於百済。聴天皇勅。故不徃焉。非任那意。於是任那旱岐等曰。由使来召、便欲徃参。日本府卿不肯発遣。故不徃焉。大王為建任那。触情暁示。覩茲忻喜、難可具申。

なお、歌可君によく似た名前である印歌臣が津守連と共に新羅へ派遣されている。印歌臣という名は印岐弥を連想させる。歌可君=印歌臣=印岐弥なのではないか。

聖明王の三策については以上である。聖明王は三策を作成し、津守連と共に倭へ使者を送ったと考える。

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任那卓淳滅亡 (その6)

前回の「神功皇后の三韓征伐の真相 任那卓淳滅亡 (その4) 」の続きである。

百済聖明王による任那復興の三策についてである。

1.六つの城を修繕し、倭の兵を500人ずつ配置すれば、久礼山の五つの城も自然と降伏し卓淳も復興する。
2.南韓に郡令と城主を置くのは天皇に背き任那の朝貢を阻むものではなく、新羅から任那を守るためのものである。
3.吉備臣、河内直、移那斯、麻都の計4名の追放。

久礼山の5城と思われる北の境の5城は加羅が占領し新羅から加羅に支配権が移っている。しかし、その後は毛野臣の暴走によって百済と新羅の連合軍により加羅より百済と新羅が奪還している。この時点では百済と新羅の共同統治体勢であったのではないか。

《継体天皇二三年(己酉五二九)三月是月》是月。遣物部伊勢連父娘。吉士老等。以津賜百済王。於是。加羅王謂勅使云。此津従置官家以来。為臣朝貢津渉。安得輙改賜隣国。違元所封限地。勅使父根等因斯難以面賜。却還大嶋。別遣録史、果賜扶余。由是加羅結儻新羅。生怨日本。加羅王娶新羅王女、遂有児息。新羅初送女時。并遣百人。為女従。受而散置諸懸。令着新羅衣冠。阿利斯等嗔其変服。遣使徴還。新羅大羞。翻欲還女曰。前承汝聘、吾便許婚。今既若斯。請還王女。加羅己富利知伽〈 未詳。 〉報云。配合夫婦。安得更離。亦有息児。棄之何徃。遂於所経、抜刀伽。古跛。布那牟羅、三城。亦抜北境五城

《継体天皇二四年(庚戌五三〇)九月》秋九月。任那使奏云。毛野臣遂於久斯牟羅起造舍宅。淹留二歳。〈 一本云。三歳者。連去来年数也。 〉懶聴政焉。爰以日本人与任那人。頻以児息諍訟難決。元無能判。毛野臣楽置誓湯曰。実者不爛、虚者。必爛。是以投湯爛死者衆。又殺吉備韓子那多利。斯布利。〈 大日本人娶蕃女所生為韓子也。恒悩人民、終無和解。於是。天皇聞其行状、遣人徴入。而不肯来。願以河内母樹馬飼首御狩。奉詣於京而奏曰。臣未成勅旨還入京郷。労往虚帰。慚悪安措。伏願。陛下待成国命。入朝、謝罪。奉使之後。更自謨曰。其調吉士亦是皇華之使。若先吾取帰。依実奏聞。吾之罪過必応重矣。乃遣調吉士。率衆守伊斯枳牟羅城。於是阿利斯等知其細砕為事、不務所期。頻勧帰朝。尚不聴還。由是悉知行迹。心生翻背。乃遣久礼斯己母。使于新羅請兵。奴須久利使于百済請兵。毛野臣聞百済兵来。迎討背評。〈 背評地名。亦名能備己富里也。 〉傷死者半。百済則捉奴須久利。〓・械・枷・鎖、而共新羅囲城。責罵阿利斯等曰。可出毛野臣。毛野臣嬰城自固。勢不可擒。於是二国図度便地、淹留弦晦。筑城而還。号曰久礼牟羅城。還時触路、抜騰利枳牟羅。布那牟羅。牟雌枳牟羅。阿夫羅。久知波多枳、五城。

しかし、欽明5年春に新羅は卓淳を取り、百済の守備兵を追い出し久礼山を占領している。久礼山とはやはり卓淳の領土なのではないか。久礼山が卓淳の領土であるにせよないにせよここで百済と新羅の関係を考える必要がある。

眞興王二年(541年) 春三月 雪一尺 拜異斯夫爲兵部令 掌内外兵馬事 百濟遣使請和 許之

541年に百済と新羅は講和している。いわゆる第二次羅済同盟が続いているのである。百済と新羅の同盟関係が決定的に破綻するのは553年である。

眞興王十四年(553年) 春二月 王命所司 築新宮於月城東 黄龍見其地 王疑之 改爲佛寺 賜號曰皇龍 秋七月 取百濟東北鄙 置新州 以阿武力爲軍主 冬十月 娶百濟王女爲小妃

553年に百済の東北部を新羅が占領したことが決定打となっているようだがその後、聖明王は王女を新羅に送っている。新羅との抗争を聖明王は極力避けたかったのだろうか。そうであれば、他国である任那諸国が新羅にとられても羅済同盟は存続したままであろう。553年以前の聖明王は一時期、倭と新羅の間で板ばさみだったのではないだろうか。

いずれにせよ、毛野臣の暴走により百済と新羅は共同で久斯牟羅の毛野臣の城を囲み、騰利枳牟羅、布那牟羅、牟雌枳牟羅、阿夫羅、久知波多枳の5城を攻め落としている。その前に毛野臣は百済軍と背評にて合戦するが、毛野臣の軍勢は半壊している。毛野臣軍の半壊は以下の記事を連想する。

《顕宗天皇三年(丁卯四八七)是歳》是歳。紀生磐宿禰跨拠任那。交通高麗。将西王三韓、整脩宮府。自称神聖。用任那左魯・那奇。他甲肖等計、殺百済適莫爾解於爾林。〈 爾林、高麗地也。 〉築帯山城、距守東道。断運糧津、令軍飢困。百済王大怒、遣領軍古爾解。内頭莫古解等。率衆趣于帯山攻。於是。生磐宿禰進軍逆撃。胆気益壮。所向皆破。以一当百。俄而兵尽力竭。知事不済。自任那帰。由是。百済国殺佐魯・那奇。他甲肖等三百余人。

最初は連戦連勝だった紀生磐宿禰の軍も最後には百済軍の前に力尽きるのである。毛野臣軍の半壊は上記の力尽きた原因となるのではないかと考えているのである。また、雄略紀にある喙の地を奪還しに来た紀小弓宿禰、蘇我韓子宿禰、大伴談連、小鹿火宿禰の仲間割れも力尽きた原因と考えられないだろうか。

このように聖明王の三策の一つ久礼山の5城に対する6城修繕は日本書紀においても関連のありそうな記事が多いのだ。

次に、聖明王の三策の2つ目は非常に重要である。なぜなら、百済が任那諸国に下韓の郡令城主を認めさせているからである。卓淳の滅亡により任那のトップ達も百済を頼らざるをえないと実感したのだろうか。朝貢の路を遮るものではないとうのは多沙津を百済に与えた時の加羅の言い分である。

《継体天皇二三年(己酉五二九)三月是月》是月。遣物部伊勢連父娘。吉士老等。以津賜百済王。於是。加羅王謂勅使云。此津従置官家以来。為臣朝貢津渉。安得輙改賜隣国。違元所封限地。勅使父根等因斯難以面賜。却還大嶋。別遣録史、果賜扶余。由是加羅結儻新羅。生怨日本。加羅王娶新羅王女、遂有児息。新羅初送女時。并遣百人。為女従。受而散置諸懸。令着新羅衣冠。阿利斯等嗔其変服。遣使徴還。新羅大羞。翻欲還女曰。前承汝聘、吾便許婚。今既若斯。請還王女。加羅己富利知伽〈 未詳。 〉報云。配合夫婦。安得更離。亦有息児。棄之何徃。遂於所経、抜刀伽。古跛。布那牟羅、三城。亦抜北境五城。

また、多沙津の件で、正式な使者として多沙津を百済に賜る任務を帯びた物部伊勢連父娘は加羅の妨害に遭い大嶋へ逃げているが、任那四県における伴跛国により汶慕羅へ逃げた物部連を連想させる。

《継体天皇九年(乙未五一五)四月》夏四月。物部連於帯沙江停住六日。伴跛興師往伐。逼脱衣裳、劫掠所賚。尽焼帷幕。物部連等怖畏逃遁。僅存身命、泊汶慕羅。〈 汶慕羅。嶋名也。 〉

このように任那四県と多沙津は似たような事件であり、そして聖明王の三策に繋がっているのである。


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神功皇后の三韓征伐の真相 任那卓淳滅亡 (その5)

百済は倭が新羅と通じているのではないかと考え始めている。今回は欽明5年3月条の赤字部分である。

《欽明天皇五年(五四四)三月》三月。百済遺奈率阿〓得文。許勢奈率歌麻。物部奈率歌非等。上表曰。奈率弥麻沙。奈率己連等、至臣蕃。奉詔書曰。爾等宜共在彼日本府、同謀善計。早建任那。爾其戒之。勿被他誑。又津守連等至臣蕃。奉勅書。問建任那。恭承来勅。不敢停時。為欲共謀。乃遣使召日本府〈 百済本記云。遣召烏胡跛臣。蓋是的臣也。 〉与任那。倶対言。新年既至。願過而徃。久而不就。復遣使召。倶対言。祭時既至。願過而往。久而不就。復遣使召。而由遣微者。不得同計。夫任那之不赴召者。非其意焉。是阿賢移那斯。佐魯麻都。〈 二人名也。已見上文。 〉奸佞之所作也。夫任那者以安羅為兄。唯従其意。安羅人者。以日本府為天。唯従其意。〈 百済本記云。以安羅為父。以日本府為本也。 〉今的臣。吉備臣。河内直等。咸従移那斯。麻都指〓而已。移那斯。麻都。雖是小家微者。専擅日本府之政。又制任那。障而勿遣。由是不得同計奏答天皇。故留己麻奴跪。〈 蓋是津守連也。 〉別遣疾使迅如飛烏。奉奏天皇。仮使二人。〈 二人者。移那斯与麻都也。 〉在於安羅。多行奸佞。任那難建。海西諸国。必不獲事。伏請移此二人。還其本処。勅唹日本府与任那。而図建任那。故臣遣奈率弥麻沙。奈率己連等。副己麻奴跪、上表以聞。於是詔曰。的臣等。〈 等者謂吉備弟君臣。河内直等也。 〉往来新羅、非朕心也。襄者。印支弥〈 未詳。 〉与阿鹵旱岐在時。為新羅所逼。而不得耕種。百済路迥。不能救急。由的臣等往来新羅。方得耕種。朕所曾聞。若已建任那。移那斯。麻都。自然却退。豈足云乎。伏承此詔。喜懼兼懐。而新羅誑朝。知匪天勅。新羅春取〓淳。仍擯出我久礼山戍。而遂有之。近安羅処。安羅耕種。近久礼山処。新羅耕種。各自耕之不相侵奪。而移那斯。麻都。過耕他界。六月逃去。於印支弥後来許勢臣時。〈 百済本記云。我留印支弥之後。至既酒臣時。皆未詳。 〉新羅無復侵逼他境。安羅不言為新羅逼不得耕種。臣嘗聞。新羅毎春秋。多聚兵甲。欲襲安羅与荷山。或聞。当襲加羅。頃得書信。便遣将士。擁守任那。無懈怠也。頻発鋭歌兵。応時往救。是以任那随序耕種。新羅不敢侵逼。而奏百済路迥。不能救急。由的臣等往来新羅。方得耕種。是上欺天朝。転成奸佞也。暁然若是。尚欺天朝。自余虚妄。必多有之。的臣等猶住安羅。任那之国恐難建立。宜早退却。臣深懼之。佐魯麻都雖是韓腹。位居大連。廁日本執事之間。入栄班貴盛之之例。而今反著新羅奈麻礼冠。即身心帰附。於他易照。熟観所作。都無怖畏。故前奏悪行。具録聞訖。今猶著他服。日赴新羅域。公私往還。都無所憚。夫喙国之滅。匪由他也。喙国之函跛旱岐。弐心加羅国。而内応新羅。加羅自外合戦。由是滅焉。若使函跛旱岐不為内応。喙国雖小。未必亡也。至於卓淳。亦復然之。仮使卓淳国主不為内応新羅招冦。豈至滅歌乎。歴観諸国敗亡之禍。皆由内応弐心人者。今麻都等腹心新羅。遂着其服。徃還旦夕。陰搆〓心。乃恐、任那由茲永滅。任那若滅。臣国孤危。思欲朝之。豈復得耶。伏願天皇玄鑑遠察。速移本処。以安任那。

津守連の詔に対して百済は下韓は返還しないことを決定し、任那を建てるため日本府に遣使を送るが日本府は応じようとしない。

乃遣使召日本府〈 百済本記云。遣召烏胡跛臣。蓋是的臣也。 〉与任那。倶対言。新年既至。願過而徃。久而不就。復遣使召。倶対言。祭時既至。願過而往。久而不就。復遣使召。而由遣微者。不得同計。夫任那之不赴召者。非其意焉。是阿賢移那斯。佐魯麻都。〈 二人名也。已見上文。 〉奸佞之所作也。夫任那者以安羅為兄。唯従其意。安羅人者。以日本府為天。唯従其意。〈 百済本記云。以安羅為父。以日本府為本也。 〉今的臣。吉備臣。河内直等。咸従移那斯。麻都指〓而已。移那斯。麻都。雖是小家微者。専擅日本府之政。又制任那。障而勿遣。由是不得同計奏答天皇。

故臣遣奈率弥麻沙。奈率己連等。副己麻奴跪、上表以聞。於是詔曰。的臣等。〈 等者謂吉備弟君臣。河内直等也。 〉往来新羅、非朕心也。襄者。印支弥〈 未詳。 〉与阿鹵旱岐在時。為新羅所逼。而不得耕種。百済路迥。不能救急。由的臣等往来新羅。方得耕種。朕所曾聞。若已建任那。移那斯。麻都。自然却退。豈足云乎。伏承此詔。喜懼兼懐。而新羅誑朝。知匪天勅。

百済は奈率弥麻沙と奈率己連等を、己麻奴跪たる津守連に付して倭に遣使する。しかし、ちょっと待ってほしい。「故」と冒頭についているので、その前の文章が原因となっているはずだが、実際は以下の文章である。

故留己麻奴跪。〈 蓋是津守連也。 〉別遣疾使迅如飛烏。奉奏天皇。仮使二人。〈 二人者。移那斯与麻都也。 〉在於安羅。多行奸佞。任那難建。海西諸国。必不獲事。伏請移此二人。還其本処。勅唹日本府与任那。而図建任那。

「故」が2つ続いている。疾使は移那斯と麻都が百済と任那が共に図ることを妨害していたからこそ倭へ向かったのだ。己麻奴跪たる津守連が同じ理由で帰るのなら、疾使と共に帰ればよいのではないか。津守連が帰国した理由は別にあると考える。そもそも、津守連は任那復興の催促と下韓を任那帰属にする詔を携えて倭から百済に来たのだ。当然、津守連が帰るのは詔に対する返答を携えていたからと考えるほうが自然であろう。百済がどのような返答をしたのか推測できる記事がある。

《欽明天皇四年(五四三)十一月甲午【八】》冬十一月丁亥朔甲午。遣津守連。沼百済曰。在任那之下韓。百済郡令。城主。宜附日本府。并持詔書。宣曰。爾屡抗表。称当建任那十余年矣。表奏如此。尚未成之。且夫任那者為爾国之棟梁。如折棟梁。誰成屋宇。朕念在茲。爾須早建。汝若早建任那。河内直等〈 河内直已見上文。 〉自当止退。豈足云乎。是日。聖明王聞宣勅已。歴問三佐平内頭及諸臣曰。詔勅如是。当復何如。三佐平等答曰。在下韓之我郡令。城主。不可出之。建国之事宜早聴聖勅。
《欽明天皇四年(五四三)十二月》十二月。百済聖明王。復以前詔、普示群臣曰。天皇詔勅如是。当復何如。上佐平沙宅己婁。中佐平木州麻那。下佐平木尹貴。徳率鼻利莫古。徳率東城道天。徳率木州昧淳。徳率国雖多。奈率燕比善那等。同議曰。臣等禀性愚闇。都無智略。詔建任那。早須奉勅。今宜召任那執事。国国旱岐等。倶謀同計。抗表述志。又河内直・移那斯。麻都等、猶住安羅。任那恐難建之。故亦并表、乞移本処也。聖明王曰。群臣所議。甚称寡人之心。

下韓の任那帰属命令に関しては上記のように、聖明王と百済重臣は一致して不可としている。任那復興のためには河内直と移那斯、麻都等を安羅から倭へ帰国させることでも聖明王と百済重臣は一致している。他に任那復興のためにどのような策を練ったのかが伺える記事がある。

《欽明天皇五年(五四四)十一月》十一月。百済遣使、召日本府臣。任那執事曰。遺朝天皇。奈率得文。許勢奈率哥麻。物部奈率哥非等、還自日本。今日本府臣及任那国執事。宜来聴勅同議任那。日本吉備臣。安羅下旱岐大不孫。久取柔利。加羅上首位古殿奚。卒麻君。斯二岐君。散半奚君児。多羅二首位訖乾智。子他旱岐。久嵯旱岐。仍赴百済。於是百済王聖明略以詔書示曰。吾遣奈率弥麻歌佐。奈率己連。奈率用哥多等。朝於日本。詔曰。早建任那。又津守連奉勅、問成任那。故遣召之。当復何如、能建任那。請各陳謀。吉備臣。任那旱岐等曰。夫建任那国。唯在大王。欲冀遵王。倶奏聴勅。聖明王謂之曰。任那之国。与吾百済。自古以来、約為子弟。今日本府印岐弥、〈 謂在任那日本臣名也。 〉既討新羅。更将伐我。又楽聴新羅虚誕謾語也。夫遣印支弥於任那者。本非侵害其国。〈 未詳。 〉往古来今、新羅无導。食言違信。而滅卓淳股肱之国。欲快返悔。故遣召到、倶承恩詔。欲冀興継任那之国。猶如旧日、永為兄弟。窃聞。新羅。安羅両国之境、有大江水。要害之地也。吾欲拠此、脩繕六城。謹請天皇三千兵士。毎城充以五百。并我兵士勿使作田。而逼悩者。久礼山之五城、庶自投兵降首。卓淳之国。亦復当興。所請兵士、吾給衣糧。欲奏天皇。其策一也。猶於南韓。置郡令。城主者。豈欲違背天皇、遮断貢調之路。唯庶剋済多難、殲撲強敵。凡厥凶党。誰不謀附。北敵強大。我国微弱。若不置南韓郡領。城主、修理防護。不可以禦此強敵。亦不可以制新羅。故猶置之攻逼新羅、撫存任那。若不爾者。恐見滅亡不得朝聘。欲奏天皇。其策二也。又吉備臣。河内直。移那斯。麻都。猶在那国者。天皇雖詔建成任那。不可得也。請移此四人。各遣還其本邑。奏於天皇。其策三也。宜与日本臣。任那旱岐等。倶奉遣使。同奏天皇。乞聴恩詔。於是吉備臣。旱岐等曰。大王所述三策。亦協愚情而已。今願帰以敬諮日本大臣。〈 謂在任那日本府之大臣也。 〉安羅王。加羅王。倶遣使同奏天皇。此誠千載一会之期。可不深思而熟計歟。

任那復興の三策を百済王が考え、任那の旱岐達も同意している。
1.六つの城を修繕し、倭の兵を500人ずつ配置すれば、久礼山の五つの城も自然と降伏し卓淳も復興する。
2.南韓に郡令と城主を置くのは天皇に背き任那の朝貢を阻むものではなく、新羅から任那を守るためのものである。
3.吉備臣、河内直、移那斯、麻都の計4名の追放。

まず、百済や任那は久礼山の5つの城が任那復興における最重要地点であると認識し、久礼山の5城を降伏させれば卓淳が復興すると考えていることである。5つの城となると以下の2つの記事を連想する。

《継体天皇二三年(己酉五二九)三月是月》是月。遣物部伊勢連父娘。吉士老等。以津賜百済王。於是。加羅王謂勅使云。此津従置官家以来。為臣朝貢津渉。安得輙改賜隣国。違元所封限地。勅使父根等因斯難以面賜。却還大嶋。別遣録史、果賜扶余。由是加羅結儻新羅。生怨日本。加羅王娶新羅王女、遂有児息。新羅初送女時。并遣百人。為女従。受而散置諸懸。令着新羅衣冠。阿利斯等嗔其変服。遣使徴還。新羅大羞。翻欲還女曰。前承汝聘、吾便許婚。今既若斯。請還王女。加羅己富利知伽〈 未詳。 〉報云。配合夫婦。安得更離。亦有息児。棄之何徃。遂於所経、抜刀伽。古跛。布那牟羅、三城。亦抜北境五城

《継体天皇二四年(庚戌五三〇)九月》秋九月。任那使奏云。毛野臣遂於久斯牟羅起造舍宅。淹留二歳。〈 一本云。三歳者。連去来年数也。 〉懶聴政焉。爰以日本人与任那人。頻以児息諍訟難決。元無能判。毛野臣楽置誓湯曰。実者不爛、虚者。必爛。是以投湯爛死者衆。又殺吉備韓子那多利。斯布利。〈 大日本人娶蕃女所生為韓子也。恒悩人民、終無和解。於是。天皇聞其行状、遣人徴入。而不肯来。願以河内母樹馬飼首御狩。奉詣於京而奏曰。臣未成勅旨還入京郷。労往虚帰。慚悪安措。伏願。陛下待成国命。入朝、謝罪。奉使之後。更自謨曰。其調吉士亦是皇華之使。若先吾取帰。依実奏聞。吾之罪過必応重矣。乃遣調吉士。率衆守伊斯枳牟羅城。於是阿利斯等知其細砕為事、不務所期。頻勧帰朝。尚不聴還。由是悉知行迹。心生翻背。乃遣久礼斯己母。使于新羅請兵。奴須久利使于百済請兵。毛野臣聞百済兵来。迎討背評。〈 背評地名。亦名能備己富里也。 〉傷死者半。百済則捉奴須久利。〓・械・枷・鎖、而共新羅囲城。責罵阿利斯等曰。可出毛野臣。毛野臣嬰城自固。勢不可擒。於是二国図度便地、淹留弦晦。筑城而還。号曰久礼牟羅城。還時触路、抜騰利枳牟羅。布那牟羅。牟雌枳牟羅。阿夫羅。久知波多枳、五城。

継体紀と時代は違うが、任那四県と同じように下哆唎国守穂積押山臣によって加羅の多沙津は百済に割譲されてしまい、怒った加羅王は新羅王女を嫁にもらう。しかし、新羅王女に従って加羅入りした新羅の100人の従者達は加羅国内に散らばり新羅衣冠を着るよう加羅の人間に命令するようになる。怒った阿利斯等は従者達を新羅へ帰国させてしまう。恥をかいた新羅は王女の帰還を求めるが、既に子供がいるということで加羅は王女の帰国を拒否している。子供がいるので少なくとも1年くらいは加羅に新羅王女はいたことになる。加羅は新羅に対して明確にNOを突きつけ、刀伽、古跛、布那牟羅の3城と北の国境付近の5城を占領する。加羅が占領した地域は3城と5城の2つの地域を占領しているようだが、どのような地域なのか。卓淳は上と下の二つに分かれていたとのことなので、卓淳ではないかとも考えたが話の流れからして加羅が新羅を攻めているのである、新羅が卓淳を攻めたのなら成り立つであろう。加羅が新羅を攻めたのであれば、以下の記事を連想するのだ。

《継体天皇八年(甲午五一四)三月》三月。伴跛築城於子呑・帯沙。而連満奚。置烽候・邸閣。以備日本。得築城於爾列比。麻須比。而〓麻且奚・推封。聚士卒・兵器以逼新羅。駆略子女、剥掠村邑。凶勢所加。〓有遺類。夫暴虐、奢侈。悩害、侵凌。誅殺尤多。不可詳載。

またまた時代が違うが、任那四県割譲に怒った伴跛国が日本に備え、新羅へ侵攻する。加羅は残忍で新羅への侵攻の様子を詳しく書くことはできないという。残忍な新羅への侵攻というと以下の記事を連想する。

《神功皇后摂政五年(癸未二〇五)三月癸卯朔己酉。(七)》五年春三月癸卯朔己酉。新羅王遣汗礼斯伐。毛麻利叱智。富羅母智等朝貢。仍有返先質微叱許智伐旱之情。是以誂許智伐旱而紿之曰。使者汗礼斯伐。毛麻利叱智等告臣曰。我王以坐臣久不還、而悉没妻子為孥。冀〓還本土。知虚実而請焉。皇太后則聴之。因以副葛城襲津彦而遣之。共到対馬、宿于鋤海水門。時新羅使者毛麻利叱智等。窃分船及水手。載微叱旱岐令逃於新羅。乃造蒭霊置、微叱許智之床。詳為病者。告襲津彦曰。微叱許智忽病之将死。襲津彦使人。令看病者。既知欺、而捉新羅使者三人。納檻中、以火焚而殺。乃詣新羅。次于蹈鞴津。抜草羅城還之。是時俘人等。今桑原。佐糜。高宮。忍海。凡四邑漢人等之始祖也。

新羅が倭へ人質として送った微叱許智伐旱を新羅が奪還しようとして使者を送り、微叱許智伐旱は新羅へ帰国する。しかし、騙されたことを知った葛城襲津彦は使者を焼き殺し、新羅へ行き、次に蹈鞴津にて草羅城を攻略する。草羅城を攻略した際の捕虜が日本にいる事を記載している。使者を焼き殺す残忍性を持つ葛城襲津彦が新羅へ侵攻したのであれば暴虐の限りをつくしたであろうと想像したのだ。それにしても、葛城襲津彦が新羅へ行って何もしないとは考えられない。以下の記事が葛城襲津彦が新羅へ行った時の真相ではないか。

《神功皇后摂政六二年(庚午二五〇)二月》六十二年。新羅不朝。即年遣襲津彦撃新羅。〈 百済記云。壬午年。新羅不奉貴国。貴国遣沙至比跪令討之。新羅人莊飾美女二人。迎誘於津。沙至比跪受其美女。反伐加羅国。加羅国王己本旱岐。及児百久〓[氏+一]。阿首至。国沙利。伊羅麻酒。爾〓至等。将其人民。来奔百済。百済厚遇之。加羅国王妹既殿至。向大倭啓云。天皇遣沙至比跪。以討新羅。而納新羅美女、捨而不討。反滅我国。兄弟・人民皆為流沈。不任憂思。故以来啓。天皇大怒。即遣木羅斤資。領兵衆来集加羅。復其社稷。一云。沙至比跪知天皇怒。不敢公還。乃自竄伏。其妹有幸於皇宮者。比跪密遣使人、問天皇怒解不。妹乃託夢言。今夜夢。見沙至比跪。天皇大怒云。比跪何敢来。妹以皇言報之。比跪知不兔。入石穴而死也。 〉

襲津彦は新羅へ侵攻するが美女二人を新羅王からもらい、逆に加羅を攻める。加羅の既殿至は百済へ逃げ、百済は大倭へ使者を送っている。しかし、百済は一方で襲津彦に降伏した節がある。

《神功皇后摂政四九年(己巳二四九)三月》四十九年春三月。以荒田別。鹿我別為将軍。則与久〓[氏+一]等共勒兵而度之。至卓淳国。将襲新羅。時或曰。兵衆少之。不可破新羅。更復奉上沙白。蓋盧。請増軍士。即命木羅斤資。沙沙奴跪。〈 是二人不知其姓人也。但木羅斤資者。百済将也。 〉領精兵与沙白。蓋盧共遣之。倶集于卓淳。撃新羅而破之。因以平定比自〓[火+本]。南加羅。喙国。安羅。多羅。卓淳。加羅七国。仍移兵、西廻至古爰津。屠南蛮。〓弥多礼。以賜百済。於是。其王肖古。及王子貴須。亦領軍来会。時比利。辟中。布弥支。半古四邑自然降服。』是以百済王父子。及荒田別。木羅斤資等。共会意流村。〈 今云州流須祇。 〉相見欣感。厚礼送遣之。唯千熊長彦与百済王。至于百済国登辟支山盟之。復登古沙山。共居磐石上。時百済王盟之曰。若敷草為坐。恐見火焼。且取木為坐。恐為水流。故居磐石而盟者。示長遠之不朽者也。是以自今以後。千秋万歳。無絶無窮。常称西蕃。春秋朝貢。則将千熊長彦。至都下厚加礼遇。亦副久〓[氏+一]等。而送之。

まさに襲津彦が加羅を攻めた時に百済は襲津彦と盟約を結んでいる。時系列を無視して内容だけを考えると襲津彦は新羅、加羅、百済の3国を支配下に置いた状況が垣間見えるのである。これは高句麗の広開土王碑に記載された391年新羅、加羅、百残を倭が破った状況といえるのである。

また、神功皇后摂政六二年の2月の記事は百済記において天皇が大いに怒っている。神功皇后の時代は天皇が不在のはずであるにもかかわらず、天皇が大いに怒っているのである。神功皇后はやはり邪馬台国の卑弥呼を想定して創作された架空の皇后ではないか。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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